エゴイズムの愛

写真昨日の続き。セックスを求めない純粋な愛に憧れる「野蛮人の国の男」と、気に入ったら誰とでも楽しむのが当たり前と思ってる「未来の国の女」、どちらが正しい?
まず男の方。愛ということは、相手の全てを受け入れて幸せを願うってことだから、彼の愛は正しくない。自分中心なエゴの愛。このタイプは自分の理想の相手像があって、そこに当てはめようとする。それに相応しくない事をするのをすごく嫌う。愛しているのは自分自身。そこに相応しい「女(または男)」であることを望む。野蛮人の男は自分の理想の純粋で清らかな女性を彼女の中に見たのに、実は違った。そこで気が狂いそうになる。俺の理想と違う!と。
古い映画だけども「パリ・テキサス」というのがある。その映画の感想を書いたある人のブログの中に、このエゴイズムの愛の話があった。映画の中の男女はかつては夫婦だったけれど、今は別れて何年も経つ。久しぶりに再会したのは、理由あってハーフミラー越し。その状況をブログの筆者は「ヴェンダース(監督)はこのワンシーンで男女の愛の形を見事に表現してみせた」というようなことを書いていた。つまり見えているのは自分だけ。相手と向かい合っているようで実は自分を見ているのだと、そんな内容だったと思う。私は「ほー?」と。この人はずっと自分本意な恋愛を続けている人なんだな、と。少なくとも私にはない感覚。
考えてみると、この「理想像の考え方」は男女で少し違う気がする。極端に言えば、男は女を支配したがる。自分の好みでいて欲しい。自分の知らない事をして欲しくない。自分の嫌いな事を好きになって欲しくない。つまり、自分の意にそぐわない彼女の部分は無視しているか、見えていない。そして、こちらも極端を承知で言うなら、女は、それを演じるのを好む。少なくとも私は、そう。惚れた男の理想に近づこうと思う。本心で。彼の好む服を着たいし、彼の好む趣味を持ちたい。私の場合、その想いが強烈すぎて破綻してしまうわけだけども。女が惚れた男に冷めるというのは、大方、それを演じることに飽きたということだ。次のドラマを演じたいと思う時。違う男に出会って違う自分になりたい。だから、女はエゴの形も少し違う。相手が自分の思い描く恋人でいてくれないことに不満を持つ。それは男と同じように見えるけれども、女の場合は主人公は自分。「こんなに愛されてる私」「優しいだんなさんを持った幸せな奥さん」。そんな姿を女はずっと演じ続けている。外へ向かって。本当はそうでなくても、自分は一生懸命演じようとしているのに、それに付いて来てくれない相方に不満が溜まる。男の本心がどうであれ、女はあまり気にしない。本心が違うなら違うと言ってくれる方がまだマシだ。ここは浮気がバレた時に、男は「真実を明かして傷つけてはいけない」と思うのに対して、女が「とにかく正直に打ち明けて欲しい」と思う話と同じ。女は、ただ、自分が一番に愛されていて、その女に負けていないと思わせてもらえれば、それでよい。女が恐れるのは浮気相手に「愛されてない女」だと思われること。うん、人にもよるか。
話がどんどんそれていく・・・・。
つまり、この野蛮人の国の男は、真摯に彼女を愛しているかのように見えて、実はそうではないということ。
男はどうもこのタイプが多いように感じる。セックスを求めない純粋な愛って意味の方でなく、自分のエゴで女を愛するタイプ。だから結婚して何年か経つとすっかり冷めるんだろう。自分の愛した女は消えてなくなってしまった、なんて。それは最初からよく見ていなかっただけだ。男ってほんとに、見えない、からな・・・・。
一方、女のエゴのせいで、男は結婚してからも、いろんなフリをさせられて疲れ果てる。家にいても気ままには暮らせない。私はつい、男の見方をしてしまうから、かわいそうなのは、「よく見えない」性質のせいで結婚させられてしまった男の方だと思うことが多いけど。
次回は、女の方を書いてみる。

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