「袈裟と盛遠」の恋愛

IMG_4621袈裟御前の登場場面は「平家物語」でほんの一瞬。私の読んでるのは新訳だけど。その一場面の描写でも充分に美しくて魅力的。月光のなか夫の大事にしている名馬を引いて現れる。彼女の登場を楽しみにしていた客たちに少しも媚びず、ただ黙って現れて消える。そして、次の登場ではもう既に亡くなっている。殺した犯人が盛遠。
芥川龍之介の「袈裟と盛遠」は「平家物語」や「源平盛衰記」とは二人の関係が少し違っている。私は芥川の小説の方が生身の男女の感じがあって好きだ。「平家物語」の袈裟御前は、なんだか伝説的。きれい過ぎる感じがしてしまう。
小説の袈裟御前の心境の方がしっくりと来る。私は彼のことを愛している。何年もずっと彼だけを愛している。彼はようやく私を抱いてくれた。けれど、もう今では彼が私を愛していない事は明らかで、ただ性欲のために私を抱いている。愛されていない事と、ただ性欲のはけ口とされている事で、私は彼に二重に恥ずかしめを受けている。そして、自分はそれを拒絶したい気持ちなのか?いや、私も彼と同じように情欲にのぼせていたのだろうか。こんな恥ずかしめを受けるならいっそのこと彼の手にかかって死んでしまおう。そうすれば私は世間からは恥ずかしめを受けずにすむ。そして、自分を犠牲にして、この愛する男を傷つける事ができる。と、こんな気持ちだと思われる。女は、こんな時いつも、侮蔑されている、という気分と、それでも好きな人と肌を重ねる幸福、という気分の間に自分で整理が付かず混乱している。男も同じなんだろうか。うむ、むしろ、男の方が、性欲のために求められていると思うときの、「嫌な気分」、なんというのか、女で言う「恥ずかしめ」が大きい気がする、な。
というわけで、彼女の気持ちは解るんだけれど、何度読んでも、私には盛遠の気持ちが心に馴染まない。きっと私が女だからだろう。
盛遠は袈裟御前の語る夫自慢が嘘だと解っている。そこまで言うのなら、その彼女が大事な夫を共謀して殺す事で、彼女を更に貶めようとしているのか、彼自身、混乱していて真意が解らない。彼が彼女に魅力を感じていない事を彼女ははっきりと解っているのに、彼は、彼女がそれを自覚していることに気づいていない。しかも、彼女が実はずっと今でも彼を愛している事にも少しも気がついていない。ここが男女の非対称だ。どうして、ここまで解りあえないのか。袈裟御前の語る夫自慢は嘘だと見抜けるのに、それが、自分を愛しているせいだと、どうして男は解らないのか。盛遠は、更に、自分がまだ袈裟御前を愛しているのかもしれないとも言う。
自分がこの相手の愛しているのか?否か?そう考えれば考えるだけ答えは出ない。
笑うのは幸福だからか、それとも、笑うから幸福であると言えるのか。(『幸福論』アラン)
男女の関係と愛についても、こんなことかしら。会いたいのは愛してるからか。それとも会いたいから愛していると言えるのか。
最近こんなことが頭の中を堂々巡りしている。
長々と、自分の混乱を書き連ね・・・。
男と女というのは、いつもこんなものなんだな。そして、これを書いた芥川龍之介が好きだな。と、つまりその程度のお話。

This entry was posted in 思ったこと, and tagged . Bookmark the permalink.

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *